■管理人が失った共感覚
持っていない共感覚が無いと言えるほどの多くの共感覚を持つ私にも、幼少から今までに失ってしまった共感覚があります。それを挙げておきます。
●共感覚による驚異的な計算能力
小学二年生の頃、算数の授業で先生が「サイコロ(立方体)の展開図を全て見つけましょう」という問題を出した際、たった二分弱で11通り全てを見つけて提出し、「お前は天才か!」とクラスの前で言われ、授業を止めてしまった(!)思い出は、共感覚の「良い」思い出として今も自分の中に残るエピソードです。(僕が解いたおかげで、残りの時間は休み時間となりました。)
自分がこの問題をどうやって解いたか、載せておきます。
立方体の面は六つある →適当な色に変換
→
■
■
■
■
■
■
→漢数字に変換・・・「三六五八六九五八二九四七」
→共感覚を使い、これらを並べ替えてできる二文字の大和言葉に変換・・・「あす(明日) ひと(人) あか(赤) むら(村) とき(時) しほ(潮) こひ(恋) よる(夜) はな(花) さき(先) うみ(海) もり(森)」
→さらに並べ替える・・・「きとらとりきしるはあみもこほすひうひさなあよかむ」
→何度かつなげる・・・「きとらとりきしるはあみもこほすひうひさなあよかむ・きとらとりきしるはあみもこほすひうひさなあよかむ・・・」
→もう一度漢数字に変換・・・「五五五五五五五五五五五七三一八二六・・・」
→
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
■
・・・
→最初の11個だけが美しいグラデーションを呈する
→立方体の展開図は11通りである
|
今自分が見ても「一体何がどうなっているんだ」と思うこのような驚異的な計算方法は、幼少期には全ての人が持っているものでしょうし、それが成人しても残っているような人はサヴァン症候群と呼ばれ、現在、この呼称を与えられている人は世界に数十人しかいません。(共感覚者のダニエル・タメット氏、キム・ピーク氏など)
私の場合、日本人にしかあり得ない解き方をしているのが特徴だと思いますが、成人してから、このような能力をものの見事に失いました。しかし、数字の共感覚色だけは完全に残っています。
それから、よく「東大に受かったそうですが、入試の数学などはどういう解き方をしたのですか」と聞かれるのですが、18歳くらいになると、ほぼ数概念は抽象的思考によっています。それに、「一流大学の入試に受かる」ために必要なことは、「勉強ができる」「教養がある」ことではありません。「その大学の入試の癖に媚びる」、そして「どんなに特殊な人も、社会の大多数の常識に合わせる」ということです。上のような回答を書いたら、誰よりも先に答えが分かっていたとしても、「入試」という法の中では「違法行為」になります。
自分の能力を隠したり、時には下げたりしないと、認められないということもあるのです。それが正しいか間違っているかは別問題ですけれど。ある意味では、東大の入試が問うていることは、共感覚者や子どもの考えていることよりも狭いとも言えます。私は、このときをはじめとして、人生に何度か、「自分の共感覚を殺す」ということをやったわけですね。それは、一時的には多大な利益をもたらすけれども、長い目で見ると決して美しいものではないと思います。私はただ自分の「知力」が知りたかっただけで、「教養」や「感性」については、最初からそこには投入の余地は無いものと考えていました。
ともかく、私は共感覚についても理数系の能力から順に失っており、やはり文系人間だなと改めて実感しています・・・。
●共感覚による驚異的な排卵感知能力
昔は(と言っても、およそ10年前、思春期を少し過ぎたくらいまでですが)、女性の排卵を感知するのに、目視を必要としませんでした。どういうことかと言うと、衣服を着た排卵期の女性がそばを通っただけで、自分が女性とは別の方向を向いている場合であっても、排卵を把握できたという意味です。また、周辺の何人かの女子生徒が初潮を迎えたのも、共感覚で見ていました。詩的表現になるのを覚悟で書きますと、それは大変に美しいもので、この上もない「男の嗜み」「男の喜び」と感じたものです。
もっとも、五歳前後までは、「世の中には男と女がいるんだなあ」ぐらいは分かっていますが、大人が言う「性的欲求」に該当するものを主体的に思考することはないわけです。ただし、「男というのは、こうやって女の身体現象を感知し、女を助けて生きるべき使命を負った生き物なんだなあ」などとおぼろげに思っていました。他の男性が排卵・月経感知能力だろうと文字・音に色を見る共感覚だろうと、そういうものを持っていないと知って、社会(男性社会)というものがいわゆる五感に立脚して成り立っていることの是非を哲学的に考え始めたのは、ずっと後のことです。それまでは、ただひたすら自分のほうが「男性失格か」と考えて悩むほかありません。
私の学校は中高一貫、男女共学の進学校で、私のクラスは中でも東京大学の受験専門のクラスでしたから、普段は勉強ばかりで、共感覚や閃輝暗点の悩みをあえて無視していたようなところがあります。中高時代なんて、男なら誰でも、「どの子が好きだ」とか「どの女が可愛い」とか、男にしか通用しないそれなりの話をするものですが、「女の排卵に色彩や音楽がある美しさ」を周辺の友人と共有することは、ついに一度たりともありませんでした。
この共感覚と閃輝暗点が併発したときには、すぐに保健室に行って寝込んでいました。見えているものは美しいのですが、肉体はかなりの消耗を伴うためです。
さて、その後は、排卵感知能力だけが衰えていき、今では排卵感知よりも月経感知のほうが頻度が相対的に高くなり、おまけに排卵感知にも月経感知にも、ほとんどの場合は目視を必要とするようになっています。排卵というのは、全ての過程が女性の内性器の中で起こることですから、到底、普通の五感では感知不可能であることは明らかです。一方で、月経は、「外界」に近い部分で起こることですし、何より排出物を伴いますから、極端に言うと、無難な五感でも感知できます。つまり、私とて、次第に「共感覚→五感」という過程を辿っていることは明らかで、さらに月経感知能力も昔よりは衰えてきています。(もちろん、普通の男性は衣服を着た女性の月経は感知できないですから、その点では私の共感覚能力は今でも「驚異的」なのかもしれませんが・・・。)
私がこうして女性に向かう共感覚(私は「対女性共感覚」と呼んでいるわけですが)を共感覚の中でも最重要なものとして語り続けるのは、価値観の多様化した現代社会にあって、この感覚を失った多くの男性にも、もう一度「男性であるとはどういうことか」について自分自身に問いかけ、真剣に考えてもらいたいからでもあります。共感覚を持っていなくとも、それが可能であるような社会であってほしいと思う。私もいつか、排卵感知能力自体を完全に失うのかもしれませんが、そのときは過去にない大きな寂しさを感じるかもしれません。しかし、あるうちが花であり、今語るしかないと思っています。
|